明和2丁目(東寝屋川方面)で7月4日、上垣内遺跡(かみがいといせき)の現地説明会が開催されました。
上垣内遺跡とは、都市計画道路梅が丘高柳線(明和交差点南側から高倉方面へ結ぶ道路。詳しくはコチラ)の整備に伴う発掘調査で出土した遺跡です。
竪穴住居跡などが見つかり、古墳時代(6世紀後半)にこの辺りで渡来系氏族が生活したことを伺わせる遺跡として、大変貴重なものなのだそうです。
説明会当日は雨が降りながらも、大阪府の担当者によって古代の人々の営みが詳しく話されました。
なんと、同じ場所から異なる時代の遺跡が見つかりました。竪穴住居は古墳時代後期(6世紀後半)に使われていたもので、飛鳥時代(7世紀前半~)から主流になった掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)跡も出土しています。
寝屋川市内には「太秦」、「秦」といった「帰化人の秦人(はたびと)」に関わる地名が残っていることから、この遺跡もそれに関連していると推定されています。
江戸時代には金の壺が出土した(明治時代にそれを売って小学校を建設した?)という伝聞もあるそうです。
最大の見ものとされているのが、東西約6.2m、南北5m以上にも及ぶ古墳時代(6世紀後半)の竪穴住居跡です。その大きさは府内最大級!(通常の竪穴住居は一辺が4mほど。)
こちらの穴にはかまどが設置されていたとみられ、穴の底に火を焚いていた痕跡が見つかりました。また、写真手前の出っ張りは煙を逃がすためのものだったと推定されています。
更に隣で見つかったのが奈良時代(8世紀)の掘立柱建物跡です。
雨で水がたまってしまっていますが、穴は腕がスッポリ入るぐらい深いのだそうです。
他にも竪穴住居跡は小さいものも含めると、全部で3か所見つかっています。
出土した土器も展示されていましたよ。
この場所には昭和初期に病院があったため、薬瓶が見つかっています。これぐらいの時代になると、実際に当時の様子を知っている方がおられるかもしれませんね。
などなど。
この場所に古来から人が生活していたことがひしひしと伝わってきます。なかなかロマンがあっていいですね。
【地図】明和2丁目
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